昭和54年05月07日 朝の御理解



 御神訓 一、
 「やれ痛やという心でありがたし 今みかげをという心になれよ。」

 大変に難しい御教えです。苦しいことは苦しい、痛い事は痛い。その苦しいとか痛いとかという時に、はぁこれがおかげだと、これがみかげだとこう思いを、変えるだけれでも大変に難しいんです、ところがそのやはりやれ有り難やという心がです、そういう時に出たらおかげになります。どんなに苦しい時でも、はぁおかげでと、まぁそれはいろいろありましょう。
 昨日からお話しております、日奈久の富永先生が合楽に御神縁を頂いて、分からして頂いたこと一切が神愛だと、もうここには恨みもなからなければ辛みもない。もう人間関係、経済もうあらゆる面で、例えば一切が神愛だと分かりきった時に、もうそこにはお礼を申し上げる事だけしかない世界があるわけ。どんなに痛い苦しい思いをする時でも有り難い場合には、はぁ神様がこんなにして鍛えて下さるんだな。神様がこんなにして力を与え、お徳を下さろうとする働きが始まっているんだな。
 本当に親なればこそ、言うならば叩いてでも教えようとする働きを、そこに感じる時に痛いけれども有り難い。やれ痛や今みかげをという心になれよという。ですから難しいけれどもここの体得が出来なければね、信心頂いておる値打ちはないんです。痛いからどうぞ治して下さい、苦しいからどうぞ助けて下さいと言うだけが信心のように思うておる。信心とはそういう痛い苦しい時に、有り難しとお礼の言えれるような心を作して下さる、ために言うなら真の道真の教え、そこに真のおかげが受けれられるのです。
 私は今朝神前で。わら人形に五寸釘と言う事がありますね。例えば人を恨むもうそれももう祈り殺したいように、言うならば憎い相手、その憎い相手にね、わら人形を作ってそしてそれにまぁ丑三つ時を選んで、人に見られないようにそしてそれを、こうそのその人のいよいよ命をも取ろうというくらいな一念でね。一心不乱にその打ち込む。あぁ恐ろしい話ですけれども、事実やっぱ今の世にも、それがあると言う事を、この頃テレビで聞きましたがね。
 あいつを本気でもう憎い、だからその呪い殺したい、という時にですわら人形を。私共はねお商売をさして頂いておっても、何をさせて頂いておっても、そういうやはり恨みを買うと言った様な事はありますよね。商売敵が憎いその憎いと思うということはもうこれは正念ですからね、正念と言うが本当の念ですからね、薄らぱぁっと思うとじゃない、もうあん奴は憎い。もう面見るだけでも歯痒いと、言う様なその念というのは、やはり相手にいくんです。ね。
 ですからはぁあの人は本当に仏様のような人神様のような人だと、誰からでも思われるような、言うなら私共にならせて頂くと言う事は、だからそういう意味合いでも有り難い。人から憎まれる様な事をすりゃ、憎まれるだけやはり痛い思い、苦しい思いをしなければならない。まして本当にあんやつを祈り殺そうごとあると言った様なね、まぁだ私共椛目時代に、私の上にいろんな起きてくることがあったんですけれども。
 ある所の信者がお参りをして来て、あの時分のお月次祭もう一晩中、殆ど朝方まで色々かかっておりましたが、そのう言うならば自分所の教会の先生が、そのう本当に合楽のおかげで信者を取られたと言った様なのをその感じそのあのう、その先生の気持ちになってですね、椛目さえそういうのね、椛目さえなかりゃこの悩みは解決するからとにかく、椛目の先生を殺そうちゅうと言うてですね、一晩中まぁ私の身辺を伺った。
 ちょうど上野先生が、まぁだ修行に来とったでしょうか、まぁその時分でした昔。そしてとうとうその部屋に入ろうと思うと、まぁだ起きいっちゃある。こうしようと思うとまぁだ御祈念しござる。とうとう一晩中その私をその出刃包丁で刺そうという隙がなかった。それで明くる日そのことを文男先生に話して帰って。それからその人はある宗教に入って、それから又そのその時の、この白衣尼さんのごとある格好をしてから、お詫びに来た事がございました。
 まぁ皆さんも覚えておる方がありましょう。それこそもう本当に殺したいごとあるその念というか恨みというものがこの、当時この椛目に来ておる。今でもやっぱぞうりごたる、こらもう今は全国から集まって来よる様な場合もありましょうね。合楽の事を悪口言う人達は、やっぱそういう悪口を言わなきゃそういう思いで、そのまぁ合楽に不肖な事が起こってくると、手叩いて喜びおると言った様な人達もやっぱある訳です。
 私は今日は、そのわら人形を頂いてですね、あぁもうその今、二十数年前のことを思い出させて頂いたんですけれども、神様はそういう時にそういう念をね、受け付けんですむほどしの強い力というものを向こうに跳ね返すほどしの、祈りというかこちらの心の状態をしっかり頂いとかんと、それこそ祈り殺されたりするようなことになってくる。私はそう言う事を大切、今の現在の合楽で言うと、取り上げて言うことでもないのですけれども、やはり人に恨まれると言った様な場合であっても。
 その恨みが反対に浄化する。反対に良いものになって向こうに返って行く様な、それを祈り返したら向こうが、祈った方がやられる訳。だからまた向こうに祈り返すと、言った様な事ではなくてです、その祈りが良いものになって向こうに返って行く様な祈りを持たせて頂けるほどしの信心が、今合楽でいわゆる合楽理念の中には説いてあります。いわゆる商売仇なら商売仇の反対、それを祈るというほどしの心の状態。どんなに悪人が来ておってもそれを、言うならば祈り返すという力は。
 相手がそのコロッと死んだり、相手が怪我をしたり、不幸な事が起こったりするような場合があるんです。だからそれではいけませんからね。やはりそういう念でも、それを浄化して、そして有り難いものとして、向こうに送れれるような信心。「やれ痛や、今みかげを。」と言う様な信心がね、どういう例えば、念がなら参り来よってもです、それを有り難しと受けたらそれは消えてしまう。そして有り難いで返っていくんです。素晴らしいでしょう。
 もうここは信心の世界の、もう何と言うでしょうか、言おうに言えない見ようと見れない、聞こうとして聞かれない世界です。念の世界。ね。「やれ痛や」と。痛いということが起こって来ることは何かがそこに原因があるんです。やれ苦しいという思いをする時には苦しい何者かがそこに原因があるんです。苦しまねばならない痛い思いせんならん。その念を例えばんなら人が恨みがここへ来て、例えば頬が痛むとあそこが痛むと、言う様な事があるような場合であってもです。
 「今みかげをという心になって」お礼を申し上げる心になったら、それは有り難いというものに浄化されるんです。今日はそこんところを、私は聞いて頂きたいし、またそこん所を今日、頂きましたそのわら人形です。いわゆるそのわら人形に五寸釘と言う様な、場合がありますよ。それこそ昨日の富永先生じゃないけれども。こいつのおかげで自分が病気になったんだと。だから自分が死ぬ前には、あれの頭にちょうなを一遍打ち込んでからでなからなきゃ死なれん。とこれは恨みです。
 もう大変な強烈な恨みと思うんです。それがんならちょうなを打ち込んで、と思うほどしの相手が、やぁあれが神様だったと分かった時に、一切が神愛と言う事が分かった。素晴らしいでしょう。そこんところです。「やれ痛や」という心で受けたらそれが浄化されて、消えてそしてそれが反対に良い祈り、念となって相手の神様の方へ響いていくのです。教祖様の御教えの中に嫁と姑の仲が悪きは、天地に響くぞと仰っとる。嫁姑の仲悪きはそれはもう天地に響くと。
 言葉でははぁお母さん、はぁうちには目出度いっち言うとったちゃ、心の中で言うならばいがみあっておる。心の中で言わばもう家の嫁御ばかりは、とか家のばばさんばかりはと言う様な、言うなら念がいつも闘っておる。心の悪い念がそういう念はね、地にも響くぞとおっしゃる。これはね嫁姑のことだけじゃないわけ。赤の他人同士でも恨み合ったりにらみ、このにらみ合ったりというのは、やはり同じく天地に響くほどしの事になって来るのですから、
 それとは反対に有り難いというものが天地に響くような、おかげを頂かなければならんと言う事になるんですね。それで私は今日その午前中に、はあぁこれがわら人形、これにその五寸釘を打つんだなと言う風に思うてしよりましたら、そのわら人形がね、大坪の「大」という字にこうなった所を頂いた。あれは「大」という字になる事を、こんなにしてある。ちょうど「大」という字になる。相手から恨まれる。
 その恨みを恨み返すんじゃなくて、それを有り難いという行、有り難いという心で受けさせて頂いたら、いよいよ心が豊かに大きくなると言う事。こちらの心が。だから恨まれる事もまたおかげと言う事になるんじゃないでしょうか。合楽の場合、いつもそんなものを感じます。だからその恨まれたりしたら、恨み返すと言った様なものが、向こうが向こうならこっちもこっちと言った様なものではなくてです、それこそ殺そうと言う様な思いで来ておってもです。
 それを有り難い祈りで返してやるというところに相手がまたお詫びに出てくる、お礼にてくると言った様な結果になってきとる訳です。 また殺しに来たじゃろうかと言う様なものはもうさらさらなかった。考えてみると本当に怖い事だなと思いますね、恨まれると言う事は。だからこっちが、いわゆる油断のない信心、言うならば商売敵のことでも、こう祈ってやれれる心の寛大さと言った様なものが育っていかなければだめです。椛目の時代はそれがありましたよね。
 言うならばとにかく私のことを呪ったり、悪く言ったりする人たちは皆、おかげを落としたです。またおかげ受けきらなかったです。そしてあっという間に亡くなったり、行方不明になったりしたです。私はその時分のことを思うと、今の信心が段々お育てを頂いて、今私のことを恨む人があるならば、むしろ私はその人のことを祈るですから、そういう何にも起こらない。けれどもやはり信心のひとつの過程においては、そういう時代もありました。もう本当に目の目指さんでしたですね。
 だから例えばそういう言うなら、痛いとか痒いとかという思いがそこに原因があってのこと。その原因は人から恨まれとるからということだけではない。いろんな原因があるのである。けれども恨まれて、ここに難儀な問題が起こっておると言った様な場合でよしあってもです。それを「今。みかげを」という心になれば、こちらはいよいよ寛大になろう大きくなれる、おかげが受けられるだけではない、相手にまでその有り難いものを送ってやれるほどしのものがかっても。
 今おかげを頂いておる時だと、それには本気で私共が一切神愛と言った様な、信心の悟りが開けてくるとです、一切にお礼が言えると言う事になるのですよね。昨日岩井千恵子先生がお届けに出てきました。学院の友達が大阪の方の田舎の方へおられる。夫婦で私の中近畿でのお話しを3日間夫婦で聞かせて頂いた。もう大変におかげを頂いて心機一転、これじゃあ自分方の教会が人が助からん筈だというので、もう合楽一辺倒合楽一色に塗り替えたごと改めた。
 それから段々おかげ頂くようになって、お参りが多くなってきた。丸少が出来て来た。山越えてまた向こうの山にと言う様な、辺地なところにそこの教会の共励会場が出来る様になった。夫婦で手分けして、共励会場に行かんならんちゅう様におかげを頂いた。もう月次祭たんびにご信者が増えていった。これは皆さん何回も手紙が来たたんびに、皆さんに聞いて頂いた話し。ところが最近はその夫婦の間に何が原因か知らんけれども、仲が悪くなってきた。
 そしてこの頃のその手紙では、もうとにかくこの生傷が絶えたことがないごと主人と喧嘩をやり合って、そのまぁ青じんだり傷がついたりするほどしのことになって、もう自分ももういよいよもてん。こげん時どうしたならよかろうか。いや千恵子さんあなたに言うたら、合楽理念をもってしなさいと言うだろうけれども、合楽理念はもう一通り分った。分ったばってんこういう難儀なことがあったが、あるがという手紙が来た。
 だからあながちです、んなら合楽理念を体得して、おかげを頂いたら、すうっと良かこつばっかりあると、いうこっちゃない事が分るですね。けれどもここんところを、大きな悟りを開いて、言うならば一切神愛と言った様な、心の状態が開けとればよいけれども、ただ言うなら簡単です明瞭です、だからおかげが確かです。これは合楽のキャッチフレーズです。だから本当に簡単にしてしまうから中身がない。明瞭ですというところを見当しないから。
 明瞭であるということは、昨日は京都から、昨日は京都、大阪あっちゃから、広島辺りからいくらもお参りがありましたが、中に後から聞いたんですけれども、教徒新聞で記者をしておられる方で、熱心な信心を頂いておる方が、昨日お参りしてきた。前の晩から参って来ておる。そしてここの話を沢山聞いて、とにかくあのうおかげの泉に、一番初めから今日までんとを、沢山のことを全部、あの買い求めて買い求められたと、いう方がございましたが。
 あの簡単だからと例えば、言うても本当にそれを明瞭にするためには、ならおかげの泉の170巻ありましょうか。それをなら読んでしもうたからそれで、尽きるこっちゃないんです実際は。明瞭にするためには。だから簡単ですそりゃ簡単ですよ、もうとにかく一切を神愛と悟ればよいのであるし、一切を黙って土の心で受けてさえいきゃいいですね、ほらこりゃ簡単ですねというごとあるです。
 けれどもさぁそこに次のいろんな問題なり、いろんな事が起きて参ります時にそれをつまびらかにする、それを有り難うして嬉しゅうして、愉快にまで合楽理念を行じていけれるまでには、その明瞭なというところの研究ができなきゃできんのですよ。分らん。富永先生をして、あぁいうない命を何回も助けて頂くような、難儀な問題の中を通り抜けられて10年、そして初めて言うなら、しん分ったのは一切が神愛だということだと言っておられるのです。
 だからねそのう昨日もその手紙を持ってから、千恵子先生がここにお届けに来ました。私はもうそげなふうなら、もういっ時ばかり合楽に修行に来んのっち言わんのっち言おうと思うたんです私が。毎日そげん夫婦喧嘩して、その身に傷あの傷が絶えないような、生傷が絶えないような、そう言う様なとこに一緒におられるもんか。いっ時ばかり合楽に修行に来なさいっち。と言おうと思うたらですこの頃から千恵子先生が、そのことそんなことを聞いて、すぐあの天の心地の心というご本を送ってやった。
 だからこれを繰り返し、読ませて頂いたけれども、なかなかすっきりとしない。千恵子先生どう言う様な、こういう時に言うならば手立てがあるだろうかと言うて相談に来た。そして主人もね主人もこれを、もうそれこそ何回も何回もあの天の心、地の心を読み返しておりますと、書いてあった。私はそこんところを聞かせて頂いた時にですね、もうおかげは間近と私は思いましたよ。
 そりゃ最愛でなからなければならないはずの家内をね、それこそ傷がつくほど叩かんならんちゅうことは、叩かんならんごたってどんなに苦しいか分からない。何かがある。それで主人そのものも、助かりたいと思う一念で言うならあの天の心、地の心のご本を主人も繰り返し読んでということを聞いて、これは千恵子先生も長いことかからんばいって私は申しました。助かりたいんですお互いが。それでもどうにも出来ないものがある。それをまぁ言うならばめぐりとでも言うでしょうかね。
 ちょうど私は千恵子先生に御届けに来る時に、昨日お供えの大きなあの婦人雑誌の、あれは何とかっていう毎月頂くんです。でそれをっとこう、開かせて頂いて見せて頂いておったところが、キリストの天地という大きな見出しで、犬飼道子さんという人が書いておるところを、読みはせんけれども、大体キリストの天地っちゃどげな所じゃろうか、どげなこつ書いちゃるじゃろうかと思うて、まぁ私の好奇心を誘うた訳ですけれども、結局読みはしませんでしたけれどもね。
 キリストの天地、いわゆる教祖金光大神が言われる。天地とはもう雲泥の差があるということです。お釈迦様が説かれた天地というのは、金光大神が説かれた天地というのは、もう雲泥の差があるんです。その天地の中にあるもの一切が神愛、教祖はそう悟られたわけです。言うならば因縁とか、罪とか申しましょう、キリスト教だって罪と言う。または仏教では因縁とか輪廻とかと言うね。教祖の神様はそういうものを一つも仰ってない。仰っておるなら、かすかにめぐりと言う事を言うておられる。
 「前々のめぐりで難を受けおる」と、そのめぐりとでも、天地に対するところの、お粗末ご無礼な前々のめぐりで、難を受けおると仰っておられる。天地に対する頂き違い、自分のものでもないものを自分のものと思うたり、それこそ神社仏閣の言わば境内においても、これは氏子の家屋敷も全部神の地所だと説いておられる。それを自分のもののように思うたり、または今日は日が良いの悪いのと方角を言うたりすると、天地に対するお粗末ご無礼が前々のめぐりになっているんです金光教では。
 だからめぐりという意味は違うんです。だから罪になったというじゃないです。だから詫びれば許してやりたいのが親心であると言う様に、教祖は説かれたんです。天地の中にこれは因縁だ、原罪だこれは罪だ、輪廻だと説いたら、もうそれだけで天地は狭なってしまったわけでしょう、だから金光教で言うところの天地とは、もう雲泥の差があるという風に私は感じましたですね。
 そういう共の中に生かされて生きておるのですから、どうでも一切が神愛と分からして頂いて、どう言う事が起こっても、どう言う風に場合によっては人から恨まれたり、妬まれたりするような事があるかもしれんけれども、それを跳ね返すというよりも、それを浄化して受けられるような、しかも有り難いもので向こうに返されるような、心の状態を作っていくと言う事が、私はお道の信心だ、「やれ痛や、今みかげをという心になれよ」と、やれ痛や痛いと言う事の原因が何かそこにあるわけ。
 けれどもそれを神愛として、「今みかげを」と合掌して受ける心。すぐにみかげの始めと言う事にもなりましょう。「やれ痛や今、みかげをという心になれよ」。心になれよその心にならせて頂く手立てが、合楽理念ではそれこそ綿密にというかね、明瞭に解き明かしてあるんです。だからそこんとろを実験していくことによってです、実証合楽理念だからと言うて、ぱっ只々覚えたことだけ、あのまぁ覚えたと、だからそれを教会の上にも、自分の家庭の上にも持っていって、それで人間ですからね。
 この頃大変人が助かるようになって、おかげ頂いたとしたら、その自分の信心が段々出来てきたから、おかげ頂いたように、その言われるわけ。そうすっとその嫁御さんがそげなこっちゃないでしょうが、合楽の親先生のおかげで、家の教会がごひれいが段々立ちだしたっでしょうが、って言う所に争いが起こってくる。ですから人間というのは、まぁだどうにも仕様がないと思いますけれども。
 ちょっとよかりゃ自分がやるようが良かけんで、自分の我が出てくるところからです、言うならばもう合楽理念も効果がなかごとなってくる。きかんごとなってくる。だから勿論合楽理念はそこんところをもう限りなく、信心の徳を受ければ受けるほど、地を低うせねばおれないような風に説いてありますけれども、そこんところが疎かになってくるけれども、けれどもその今の教会じゃないけれども、助かりたい。夫婦喧嘩がやりやり。それでも夫婦の者が助かりたいと願っておる。
 しかも合楽によって助かろうとしておる。言うなら天の心地の心を主人も繰り返し読んでおると言うところにです、やっぱり通るとこ、昨日の御理解じゃないけれども、通る所を通って本当の合楽理念によるところの助かりと言う事になってくる。そこには一切が神愛というものがあるだけ。どう言う事があっても、今みかげをという心で受けられる心の状態が、本当のものになってくると言う事なんですよね。
   どうぞ。